久永先生の研究よもやま話

 

研究論文出版妨害

 

大した研究など何もしていなくても研究者として高い地位にある人は日本には多数います。 アメリカも同様です。 本当に悲しいことです。 優れた研究をすることは親からもらった才能が必要で、金と努力も必要です。 しかし、他人の妨害をすることは地位さえあれば非常に簡単です。 

 

私はクラシック音楽が好きであらゆるといっていいほどの楽器をもっており、多数の楽器を練習してみましたが、全く楽器の演奏に才能がなく、才能がないというより、頭が悪いのでしょうね。 西洋音楽の才能がないため、和琴の練習を試みましたが、調律すら全くできませんでした。  それで最後に尺八を試みましたが、これは少し吹くことができ、先生について練習しましたが、全くものにはなりませんでした。 ゲーテは芸術、スポーツの才能はないことを認めても、自分の頭が悪いことを認める人はほとんどいないと言っています。 知的能力、研究能力のない人が研究者となり、地位を獲得すると、しばしばというよりほとんど優れた研究者を妨害します。 悲しいことです。

 

アメリカの最も有名な病院と研究所の一つにメーヨークリニックがあります。 メーヨークリニックには5000人以上の医師がいます。 日本人の程度の低い人がしばしば大量に留学し、帰って来たらメーヨーの何とか先生のところで研究していたと自慢します。 アメリカではメーヨークリニック、マサチューセッツジェネラルホスピタル、クリーブランドクリニック、テキサスヘルスサイエンスセンターが有名で、皆さんそこに留学したがります。

 

ところででアメリカは人種のるつぼと言われる国ですが、J系の人が最も活躍する国でもあります。 アメリカでJ系の人たちは人口の2.2%のみですが、医師は50%がJ系です。 ちなみにヨーロッパの多くの国もJ系は2-3%ですが、医師の50%はJ系です。 また、アメリカの物理学者はJ系は約30%です。 私もアメリカに論文を出すまで、アメリカではJ系の医師が50%などということは知りませんでした。 

 

私は1979年の2月にアメリカの有名な医学雑誌American Heart Journal(略称アメハ、140年前からある有名な雑誌)に投稿しました。 一度書き直して8月にアクセプトされました。 1979年の10月か、11月に出版される予定で、ゲラ刷りも受け取り、ゲラをチェックして送り返すことも完了しました。しかしその後、編集長がバーチからJ系のメーヨーの内科のDemariaに変わりました。 これはいかんと思いました。  Demariaは心エコーが専門で私を妨害すると簡単に予想できました。 予想通り10月になっても12月になっても出版されず、私はDemariaに手紙を出しました。 全く何の返事もありませんでした。 仕方なく前編集長のバーチに手紙を出したら、すぐに返事がきましたが、なぜ出版されないのか編集長をやめてしまったから、理由はわからないとのことでした。 これはアメハを見ればわかることで証拠のあることです。

 

明らかに私の経食道超波断層装置とその臨床応用の研究が歴史的な研究のため、自分のグループが発表できるまで印刷を伸ばすつもりなのでしょう。 ご存知のように同じ論文を二つの雑誌に投稿することは厳禁ですから、これほど困ることはありません。 私は既に経食道超音波断層の正常例及び病気での報告を1977年と1978年にしておりましたから、それほど慌てずに済みました。 さらに幸い私は多種類の器械を開発していまして、アメハは高速セクターと高速リニアの断層装置の論文で、高速の回転スキャナーの臨床検査も終わっていましたから、急いで高速回転スキャナーの臨床応用の論文を書き、いろいろ調べたところ、有名誌ではAmerican Journal of Cardiology(略称アメカ)の編集長に一番骨があるとわかりましたので アメカに新たに投稿しました。 アメカの編集長が一番信用おけることがわかったのは名古屋大学第三内科のK助教授がアメカに投稿した時、論文を落とされた時の編集長の手紙に「Nothing new in your paper, you had better submit to other journals. (あなたの論文には何も新しいことがない、別の雑誌に投稿しなさい。)」と書かれていた返事を見せてもらったことがあるからです。 そうして投稿したら採用され、私の論文はアメカで1980年の10月に出版されました。 アメハでも同じ1980年の同じ10月に出版されました。 Demariaがアメカに私の論文が載ることを聞いたのでしょう。 アメカに合わせてアメハも同じ10月に出版したのは二重投稿だと思わせるための嫌がらせであることは明らかですが、二つは全く異なる論文でした。

 

 

  医学の共同研究と発表妨害

 

  人間はもちろん、自分が有利になるように行動する動物です。 有利になるといっても他を不利にして相対的に自分が有利になることも可能です。 そのことに異論のある人はまずいないでしょう 他の人を助けて有利にする行動をとる人はいますが、それも他の人を助けることにより自分の評価を高めて尊敬されるようにしているのであって、自分を有利にする方法の一つだと考えられます。 他に優れた人がいれば、自分の評価が下がりますからその優れた人を妨害して優れてないようにすれば、相対的に自分が優れていることになり、自分が有利になります。 妨害の方法に無視という方法があります。 優れた人がいたら、すべてのことに関して、その人を無視すればその人が存在しないことになり、 自分の相対的地位は高まります。 研究も全く同じことが言えます。 これは医学の研究に最もあてはまります。 ある若い人が何か優れた研究をしたら、高名な研究者がその人に近づいて共同研究のため自分のところに来ないかと誘い自分のところに来たら、金をふんだんに出して、研究させ、 結果は自分がトップネームで発表し、自分の業績とするのです。 このような高名な研究者と称している人々が医学の研究の世界では多数いるのは本当に残念です。

 

  アメリカのロチェスター大学に高名なGramiakという教授がいました。 この先生は1969年にジアグノグリーンあるいは生理食塩水を入れた注射器を激しく振動させて細かい泡を作りそれを静脈注射すると心エコー検査での血流の造影作用があることを発表し、世界的に有名になりました。 しかしこの現象はJoynerという人が発見し、口頭発表したのですが、論文発表しなかったため現在世界で無視されています。 ジョイナーの話を聞いたGramiakは翌年Shahとともにこの造影現象をコントラストエコーと名付けてRadiologyという雑誌に発表しました。  そのため、Gramiakは世界的に有名になりました。この有名なGramiakが1977年春、日本の超音波医学会に特別講演のため日本に招待されて講演しました。 それは良いのですが、Gramiakは私の超広角度超高解像度の高速心エコー断層の講演を聞きました。 そうしたら、彼のほうから私にわざわざ会いに来て、素晴らしい研究と講演だと褒めました。 

 

  皆さん世界的に有名な学者から直接褒められるとうれしくなるのだそうですが、有名でもこんなインチキ学者に褒められても私は少しもうれしくなく、適当なお愛想笑いとサンキューと言って別れました。 その直後、Gramiakから手紙が来て、アメリカの自分の研究室に来ないかと誘われ共同研究を提案されました。 私はもちろんすぐに、「感謝するが全くアメリカに行く気がない。」と断りました。 どうせ私の研究を盗むだけだということはよくわかっていました。

 

  その年、1977年の秋10月に、私はアメリカの超音波医学会で重大な発表をしました。 このときのアメリカ超音波医学会はアナハイムで行われたか、ダラスで行われたか忘れましたが、いずれにせよ、私の発表は最終日の土曜日の午前10時で最良の発表時刻でした。 ところが、Gramiakが私に話しかけてきてGramiakと親しいオーストラリア人のKosoffの、母親が病気で重症のため、早くオーストラリアに帰りたいといっているから、私と発表の順番を変われと行ってきました。土曜日の午後4時半は発表の最後で皆帰ってしまい、誰も聞かない時刻です。 それにしても、よくこんなバ○なことを言ってくるものだと感心します。 別のアメリカ人の発表がいくつもあるのに私のような日本人に言ってくるとは驚きです。 私は「母親の病気は同情するが、私の発表時刻は最良で午後4時半という最後で最悪時間とは変わる気はない。」と、しかも「なぜ本人ではなくあなたが言って来るのか。」と言って断りました。 Gramiakは嫌な顔をしていました。 Kosoffは医師ではなくオーストラリアの技術者で、オーストラリアは面積としては大国でも、産業がなく、そのため、大量の税金を使って、信じられないほどの程度の低いものを発表していましたが、同じように程度の低いGramiakも それを高く評価していたようです。 その中でも、最も笑えるのはオクトソンといって超音波素子を8個使って低速断層像を出す装置を作り、日本の東芝、日立にも技術導入しないかと言ってきたので、私も両社から相談されました。 「超音波断層は複数の素子を同時に使用すると組織により超音波の速度が異なるため、完全な合成が不可能で理論的にも実用的にも絶対だめだ。」ということが技術者でもわからないという、程度の低い人でした。 Gramiakも多数のアメリカ人の発表があるのに私に言ってくるとは、私の発表の内容をアメリカ人に聞かせたくないことが明らかです。 ところでGramiakの妨害はこれだけではありませんでした。 私の発表の座長はGramiakの弟子の女性でした。 私はこれはまずいなと思いました。 私の発表はGramiakが日本で見た胸壁からの超広角度、超高解像度の心臓全体をみられる発表は一部分でそれに加えて、日本でも発表していない世界最初の経食道の断層心エコーの発表でした。Gramiakとその弟子がそれを知っていたかどうかわかりません。

 

  私の発表の順番がきて、もちろん最初は通常のようにスライドで発表しましたが、私の発表の時はチャチャチャと時々音がします。 最初は何の音かわかりませんでした。 これは世界最初の経食道心臓断層の発表だったのですが、そのスライドの像はすさまじく、信じられない高解像度で世界最初の完全な高速の心臓全体像の発表でした。 日本の発表ではチャチャチャなんて音は全くしません。 私の発表を見て、聞いている人は椅子に座っているのみならず一番前の椅子の前にお尻を床につけて座っている人が多数いて、さらに椅子の間の通路に座っている人もいました。 チャチャチャの音は私がスライドを変えるたびに彼らが自分のカメラでシャッターを切っているということがわかりました。 後で知ったことですが、私が16mm映画をうつしたときはジャーという音が聞こえましたが、それも私の映画を8mmで撮影している音でした。 翌年、アメリカの学会に行くと何度も呼び止められ、スライドを撮った写真を私に見せて質問されました。 アメリカの学者はずいぶん勉強家です。  

 

  私の世界最初の経食道超音波断層像の発表はものすごい反応で好評でしたが、スライドの発表が終わり16mm映画の上映に移ろうとしたら、座長がストップをかけ、16mmの上映の中止を映写技師に命じました。 私が上映の許可は得ていると抗議しても聞かず、それでも、映写技師が上映しようとしたら、座長が段上から降りて、16mm映写機の電源コードを床のコンセントから映写できないように抜いてしまいました。 私はそれを座長に抗議するとともに、聴衆にスライドの如く世界最初の経食道からの動いた心臓の断層像の16mm映画を見ないのは皆さんの損だと訴えるとその場にいた人達はゴーゴーと言って私を励ましました。  そうしたら、映写技師は台から降りて自分で電源コードのプラグを差し込み、勝手に16mmの映写を始めました。 その時拍手はものすごかったです。 これでGramiakとその弟子の妨害は終わり、私の世界最初の経食道の断層の映写は成功裏に終わりました。 Gramiakは日本で見た胸壁からの断層像だけでなく、世界最初の経食道の断層の映画を見てさぞ驚いたでしょうし、しかし私はGramiakから非常に恨まれたと思います。

  

   ついでに日本での16mm映画の妨害も書いておきます。 1979年か1980年かは忘れましたが、珍しく、日本循環器病学会の発表会の会長に名古屋大学の環境医学研究所の教授がなり、名古屋で発表会がありました。 私はこの学会でも16mm映画の映写の許可を学会から得ていたのですが、名古屋での発表では16mm映画の映写を禁止すると伝えてきました。 私は学会の許可を得ているといっても会長の名大教授は取り合いませんでした。 ところが、発表会の二日前になって、突然16mm映写を許可するが映写機は自分で用意するようにと、のちに藤田医科大学の内科の教授になるH先生から連絡がありました。 H先生に理由を尋ねると東大の先生が強く16mm映写を望み、それを許可したためやむを得ず私の映写を認めたのだそうです。 同じ大学を出ていたため、名大の教授はより嫉妬深く私に16mmの映写をさせたくなかったのでしょう。

 

 

  医学の研究とアメリカ政府の干渉

 

 

   世界最初の新しい医学の研究に関係しますと、いろいろな人間の普段には見せない反応が見え、面白くもあり哀れでもあり悲しくもあります。 私が人間の心臓の病気の正しい診断のため、経食道の超音波断層診断装置を開発したことは何度も書いてまいりました。 経食道の超音波診断装置としては、(1975)今はほとんど使われないM-モードという超音波で心臓の一部分の動きをグラフ表示する検査をアメリカのFrazinという医師が最初に報告しました。 Frazinの後1977年に世界の二番目か三番目として日本のY大学のM先生が、内視鏡と同じ構造のものの先端に超音波素子を取り付けた装置をアロカ(株)に製作依頼して、それを使用してM-モードという心臓の動きのグラフ状の波形を記録して発表しました。この先生は初めのうちは世界最初といって発表していましたが、その後、FrazinM-モードに関して世界最初であることを認めました。 しかし発表がたった一回のみであったため、Frazinが発表したことを知らなかったし、Frazinの発表前から食道M-モードの研究をしていたといっていました。 ところが、少なくともフラジンは3回は発表しており、最初の発表が1975年のCirculationのアブストラクトで、これはM先生がアロカに製作を依頼した時より、6か月以上前の話で、M先生の勉強不足とともに世界最初のことがいかに困難であることかを示しています。

 

  実際多くの研究者と自称している人たちがほとんど他人の論文を読まないことには驚かされます。 不肖私は論文を読みすぎ、医学の研究の場合論文を書いた本人より、読んだ私のほうが、はるかに理解している場合も多数経験しています。 全くもってほとんどの研究者が論文を読まず、理解もしていないことには驚きです。 それはともかくM氏は、今はほとんど使われないM-モードの食道からの超音波検査を行い発表したのですが、それを世界で最初に行って、プライオリティーのあるフラジンがどうして一回しか発表しないのか不思議というか、一回のみだからさも評価が困難の如く書いておられます。 なぜそうなったか,理解できないようです。私ならすぐわかるのですが、本当の医学のパイオニアでないと研究はわからない、人間的なところが多数あります。 臨床医学の研究には真のパイオニアしか理解できないことがあるのです。 私は何度も書きますが、世界最初に食道からM-モードでなく、超音波高速度断層装置を開発し、人間で検査し、それを197710月に世界最初としてアメリカ超音波医学会発表しました。

 

  多分あくる年の1978年のアメリカの超音波医学会の時だったと思います。(私の怪しげな記憶では1978年だったと思いますが、一年くらいはずれているかもしれません。) 私は学会の会場内でアメリカ政府のFDA職員二人に呼び止められました。そして、食道断層装置に使用する超音波トランスデューサーの電気的、熱的安全性のテストについて聞かれました。 私は「検査と研究は日本で行っているから、アメリカには関係ない。」というと、「アメリカの研究者が聞いていて、また、それをまねてアメリカ人が食道断層検査をするかもしれないから、関係ある。」といい、「もし、質問に応じないなら、アメリカの学会で発表できなくさせる。」と脅されました。それで私は簡単に電気も熱も安全であることを説明すると同時にあくる日に私が設計したものを製作依頼したアエロテック社の副社長と相談し、正式な返事と説明をすると言って、あくる日に会うことを約束し別れました。 私はすぐに展示場へ行き、アエロテック社の副社長に会い、対策を練りました。そして、翌日FDAの職員とあった時、私はトランスデューサーにかける電波的パルス波は周波数が3.5メガヘルツ以上で高く、人間の神経に全く反応しないことを電気メスの原理を解説して説明しました。 また、温度も電波出力(高周波出力)、パルス繰り返し周波数(PRF)から、計算上のエネルギーも少なく、かつオイルバッグ付きであるため理論的にも安全であることを説明すると同時にオイルバッグを付けた時の温度の測定をしても上昇温度はほとんど測定できないほどであったと説明しました。 そしてデータは日本にしかないから、日本に帰ってから、アエロテック社の副社長に送り、副社長のほうから、安全性証明の文書を作成してもらい、FDAに送ることで納得してもらえ、本当にほっとしました。今思い出してもこの交渉は大変でFDAに納得してもらえた時は本当に助かったと思いました。こんなことは世界最初の臨床医学の研究した人でないと全く経験しないでしょう。

 

  一方M-モードを発表したフラジンは医師で、私と異なり電気的知識、温度的知識がなく、製作者のアエロテックの副社長も、医学的知識がなく、電気的安全性をFDAが納得できる説明ができなかったことと同時に、アメリカでは新しいことを行う場合、病院の倫理委員会の承認を受けるのが普通ですが、その委員会の許可が知識不足、実験不足で得られなかったと想像されます。 そのため、一回(実際は2回)しか発表ができなかったと思われます。 しかし、Y大学のM氏には世界最初でなく、アメリカ国内での口頭の発表はなく、さらに私とアエロテック社で人間の安全性の問題を解決したことは全く知らず、そのような苦労なく本当にうらやましいと思いました。世界でおそらく、M氏の次に世界三番目に食道のM-モードを行った当時O 大学の講師だったMy氏のアメリカでの発表も安全性の問題を私とアエロテック社で解決し、FDAの許可が出て以後のことで、まったくその苦労をしていません。本当のパイオニアの大変さは誰にも理解されません。

 

  私の世界最初の経食道断層装置の開発の5年後、1982年にSouquetが経食道のphased arrayの超音波断層装置が開発しました。しかし、この装置は私の装置とトランスデューサーが全く異なるため、アメリカのFDAは承認しておらず、アメリカでの発表は人間の検査においては、(もししたとしても数回しかできないことと)、特にこのphased arrayの経食道断層検査はアメリカのカリフォルニア大学サンフランシスコ校の(機械はどこ製か知りませんがSouquet製か?)Schillerのところで検査中に心停止事故が起こり、アメリカでの検査はやむを得ずというより予定通り、日本と同様に安全性に関して無関心のドイツのHanrathSchulterのところに装置をもっていって人間での検査を行い、1982年に発表しました。 HanrathSchulterはそんなことは全く知らず、天から降ってわいた新しい研究にさも自分らが開発したようにふるまって発表していたのは、本当のことをわかっている私には滑稽でした。 このように医学の研究は本人の能力に関係なく、降ってわいた偶然で業績を挙げることがしばしばあります。 こんなことは本当に間違っています。

 

  アメリカのFrazinは電気的、温度的知識がなく、病院の倫理委員会及びFDAに対して、今は使われない経食道のM-モードの安全性を証明することができなく、研究を続けられなかったと推察されますが、Y大学のM氏にはそんな事情は全く想像もできなく理解できないようです。 こんなことに私はうらやましく思っています。 FDAに交渉した時ほど、私に他の日本人より少し英語の会話能力があり、技術的電気的知識があったことに感謝したことはありません。

 

  前述の様に世界で二番目に今はほとんど使われていないM-モードの食道からの検査をしたM氏は、最初はアロカ製のトランスデューサーを使っていたようですが、私がアメリカのアエロテック社に私の設計通りに製作を依頼したとの発表を見て、アロカ社はアエロテック社から食道トランスデューサーを買い、それをY 大学M氏に渡したようです。 渡したようですというより、M氏の写真入りの「Meet the history」という読み物に彼の使用したトランスデューサーの写真が出ていますが、最初のものはアロカ社製のようですが、すぐ後のトランスデューサーの写真も写っており、それは一目でアエロテック社製だとわかるものでした。 しかし、本人はアロカからもらっているため、どこ製なのか全く知らなかったようです。 もし知っていたら、ライバルや私が見ることをわかっていてトランスデューサーの写真を載せることはないでしょう。 歴史的な研究の裏話とはこんなもので、いろいろなアメリカの安全性の審査を通す苦労を知らず、病院内の倫理委員会の審議なしで研究できるのは、うらやましいし、幸せなことです。他方世界最初は本当に医学では難しいです。 かく言う私の所属する病院には倫理委員会もなく、病院から何も言われないのみならず、病院長もプローブを飲んで研究に協力してくれたと同時に、日本の官庁や学界から安全性の注意を受けたことは一度もなかった事はありがたいことでした。

 

 

  優れた研究者の後悔

 

  もうお亡くなりになられましたが、日本には非常に珍しい優れた有名な超音波医学の研究者に関西の医学の研究所の所長を長く務められたN先生がいます。  N先生は京都大学医学部物理学科を卒業後、大学院の修士課程まで修了し、それから再び国立のO大学の医学部を卒業なさっています。 同じO大学の工学部を卒業された里村先生は戦時中にレーダーの研究をなさっていたそうですが、戦争が終わり、レーダーの研究の必要がなくなり、研究内容を超音波の医学への応用に変更されました。 超音波を生体に充て、その反射波のドップラー効果を使って何か生体の診断に利用できないかを模索なさっていました。 N先生と里村先生は1955年前後に出会うのですが、N先生本人が書いたものを読むと、工学部の里村先生が超音波ドップラー現象を何か医学の診断に利用できないかと思い、工学部のO教授の紹介でO大学医学部の内科の吉田教授に相談したら、吉田教授からN先生に里村先生の研究を手伝えと言われて二人の共同研究が始まったという話とは別に、N先生本人が里村氏の「超音波ドプラ現象を医学に応用できないか?」という新聞のコラムを見て、N先生が直接里村氏を訪ねたという二つの話があり、どちらの出会いが正しいか両方本人が書いたわけですから判定できませんが、どちらかの理由で里村氏とN先生は出会いました。

 

それで、里村氏とN先生の共同研究が始まったようですが、超音波ドプラ現象の生体での利用の初期の研究で一番の成果は連続波の超音波を当てた時のドプラ信号のうち、強いドプラ信号は心臓組織からの反射で、少し弱い信号は弁尖の、さらに弱いドプラ信号は血球からの反射とわかり、ドプラ効果で生体内の血流速度が測定できるという発見でした。 この弱いドプラ信号が血流速度に関係するという発見は、N先生と里村先生との二人で発見したものではなく、里村先生と別の一人の先生(私の記憶では金子先生)との議論の結論として発見されたということを、N先生が引退後の回顧録に書いてあります。 N先生自身里村氏が機械のことを知るのみで、医学のことは全くの素人だと何度も強調なさっていて、つまり、里村氏が医学のことを知らないから、医学のことを知って協力した自分と里村氏は対等だと言いたいのでしょう。 それで1956年頃だと思いますが、里村氏、N先生を含む4~5人の著者(N先生がトップネームではありません。)で日本循環器学会誌にのせた論文の英訳というべき論文を勝手に里村氏一人でアメリカのJournal of Acoustic Society of Americaにのせたとして異論を唱えています。 つまりありていに言えば、初めてのアメリカ出版の英文論文を自分の許可なく、かつ著者に自分を入れず、里村氏単独の著者で載せたことが面白くないということです。 このことはN先生の異なる三種の回顧録で、読みました。よほど悔しいと思ったようですが、他人から見れば、その思いは勘違いにしか思えません。 

 

私の知る限り、里村グループの超音波ドプラの医学論文で、N先生がトップネームになるのは日本語英語を含めて56番目の論文で、里村先生の次にトップネームが多いのは教授の吉田先生(N先生の教授)でした。 心臓の超音波検査ではM-モードを世界最初に開発、発表した医師エドラーと技術者ヘルツの発表が有名ですが、この両名は真のパイオニアとして、ノーベル賞の次に評価の高いラスカー賞を受賞しています。 それでN先生はエドラーとヘルツのようにN先生と里村氏との連名でアメリカの有名雑誌に載せていたら、エドラー、ヘルツとまでいかなくとも、それに近い存在に自分がなれたかもしれないという考えが、かすかに頭によぎっていたのかもしれません。 しかし、そのような見方は私の下品かつ嫌らしい妄想なのでしょう。 

 

何度も書きますが、私は珍しく世界最初に経食道超音波断層撮影装置を開発し、その臨床応用の経験があり、世界最初の医学研究とはどのようなものか、少しは他の人より論理的にも感情的にもわかっているつもりです。 N先生が心臓血流ドプラの論文でトップネームになるのが、N先生のグループのドプラ論文のうちせいぜい56番目の論文である以上、最初の外国の出版の論文で二人連名でなく、三人以上の著者数の論文でしたら、二人目以降はほとんど一般に無視されることはよく知っているはずですし、彼程度の共同研究で里村氏とN先生との連名での論文など全く無理であることはわかっているはずです。 有名なFeigenbaumEchocardiographyの本の歴史の項でも里村以外に吉田論文も載っており、N先生は吉田の論文の連著者の3番目に載っているのみです。 一般に共同研究といっても里村氏が医学の知識が全くなく、里村氏とN先生が対等と思っているのかもしれませんが、「私のように医学も技術も両方理解でき、自分で考え、かつ製作し、自分で患者さんを検査して発表した者から見れば、里村氏のアイデアで里村氏が制作した装置で患者での検査をたとえN先生が手伝ったとして、私から見ればN先生の貢献度はせいぜい10%以下程度だと思いますし、N先生以外の誰でもできたことだと思います。 N先生は里村氏が医学の知識は全くないと盛んに繰り返し書いておられますが、医師でありながら自分では、一番弱いドプラ信号が赤血球によるものだとの発見はできず、その発見は里村氏と他の一人(金子氏)によるものだということを後悔すべきです。 歴史を知らない二十一世紀の若い医師は血流からのドプラ信号の発見は里村氏以外にN先生も関係していると思っているのではないでしょうか。 この発見がなかったらドプラエコーはほとんど意味のないものです。 医学の知識などというものは、私が頭の良い人に数時間教えたら、一般の医師よりはるかに多くの知識を持つ程度のもので、物理学や電子工学のように頭がよくなければ理解できないものではありません。

 

  N先生が京都大学理学部物理学科出身でもそれがわからないのは、研究のプライオリティー特にドプラ法のプライオリティーが非常に魅力的で、そのプライオリティーが世界的な意味でN先生に関しては、そのプライオリティーとほとんど関係なかったものですから、そのことに対する悔しさならわかります。 しかし悔しさは本人の内面的な問題です。 それにもかかわらず日本国内でで高く評価されているのは、私には行った研究以上の高い評価だと思い、それで満足すべきだと思いますし、後悔するとしたら、里村氏のドプラの論文以後、方法論的には14年間にわたって客観的に何の進歩もなく、パルスドプラはBakerにカラードプラは滑川氏に先を越されたふがいなさを後悔すべきでしょう。 里村氏はその後4年で亡くなられましたが、ドプラ研究をしていたO大学グループは1420年間一体何をしていたのでしょうかと思いますし、これを後悔しないのは本当に残念です。 世界最初の研究は本当に難しいものです。 最後に再び強調しておきますが、N先生が日本人としては珍しく優れた研究者・指導者であったことは確かです。

 

 

私久永と経食道phased array超音波スキャナーを

開発したSouquetとの関係

 

  私は世界に先駆けて、経食道超音波断層装置を1977年に開発したのですが、5年後の1982年にSouquetが経食道のphased array scannerを開発しました。 私は誰かが経食道の装置を私の後に開発したら、私の役目は終わり、研究をやめようとおもっていましたが、というより、研究に私の全財産数千万円を使ってしまい、もう研究を継続するお金が無くなりました。なくなる前に誰かが経食道断層の研究を発表してくれないかと思っていたら、1982年になって やっとSouquetが発表してくれたのです。 私とSouquetとは何の関係もないように見えましたが、実は以前より、かなりの関係があったとあとでわかりました。

 

  1978年の末、Daigleというアメリカ人からの手紙があり、日本の名古屋に行き三菱病院を訪問するから、経食道断層装置を見せてほしいとのことでした。私はすぐ「Yes」という返事をしました。 Daigle1979年の1月に名古屋に来ました。 私は新幹線の名古屋駅まで迎えに行き、病院で若いドクターを被検者にして、食道断層を見せると同時に本人に経食道スキャナーを手に持たせて検査をさせましたから、感動していました。その後、名古屋城を見せようとしたら、交通規制で行くことができず、見せるものがなく栄の地下街を見せたところ、夫婦ともに本当に驚いて、戦時の非難のための地下街があるのかと不思議がっていました。  最初の外国人の訪問であったため、名大の神戸先生に頼んで、夜高級料亭で接待をしましたところ本当に楽しんでくれました。

 

  彼は動物でM-モードなしの経食道のパルスドプラの論文(犬)を出していましたから、ちょうど私の世界最初の人間でのM-モード付きのパルスドプラの検査を載せたランセットの論文を見せるとがっくり来ていました。 その時は知らなかったのですが、Daigleは1975年あるいは1976年頃からSouquetと関わりがあり、Souquetに引っ張られてSouquetの会社に入って研究していたようです。 Souquetという人はアメリカでいろいろの会社をもっており代表的なものがバリアン、ATLです。 ご存知のようにバリアンは最初にPhased array scannerを売り出した会社で、A.T.L.は最初にM-モード付きパルスドプラの機械を売り出した会社です。 DaigleSouquetに言われて会社の金で日本に出張してきたのですが、その時はSouquetDaigle を雇っていることを知りませんでした。 したがってSouquetDaigleが私に連絡を取った1978年の末から経食道の断層の機械を作ろうと思っていたのは明らかです。 Souquetはそれから3年半後の1982年の5月頃、世界で私の後2番目として、像は悪いが経食道のスキャナーを「Cardiovascular Diagnosis by Ultrasound に発表します。このときカリフォルニア大学のSchillerが、経食道の検査で心停止事故があったこととFDAの許可が取れていないこと、アメリカでの個々の病院での安全委員会の許可を得ることが困難なことから、以前から経食道の装置の製作を依頼していたと思われるドイツのハンブルグ大学のHanrathのところに経食道の新しい機械をもっていきました。 ハンブルグ大学のHanrathSchulterは本当にラッキーだと思いますが、当人らはそう思っていないようでした。 というのはHanrathにとってはよほどうれしかったらしく、19825月末にハンブルグで食道断層のシンポジウムを開き、その時の演者の論文を「Cardiovascular Diagnosis by Ultrasound」という名前の本に載せ出版しました。 驚いたことに食道断層のパイオニアである私もお金付きで招待しました。 従って私の論文も上記の本に載りました。

 

  結果はSouquet, Hanrath の経食道の断層像はあほらしいほど像が悪く、驚かされました。 もっと驚いたのは、HanrathSchulter5年前から研究している私の心臓の像を全く知らず、直接話しても論文も全く読んでいないことがわかり、全くの勉強不足には驚きましたが、論文を見たり、私の発表を聞いていたら、私をお金付きで招待することは絶対しなかったでしょう。 ヨーロッパは本当に遅れていますし、日本人の如く勉強不足です。

 

 

  世界で最も有名で厚い心エコーの本「Feigennbaums echocardiography」の冒頭のHistory of echocardiographyの項でFeigennbaumは経食道断層は最初日本とヨーロッパで研究が行われたと書いていますが、日本で開発されたのは事実で次に開発したのはアメリカで、アメリカでFDAや病院の倫理委員会がうるさいのでSouquetはドイツに機械をもっていったのであって、別にヨーロッパがパイオニアであったわけではないことがわからないようですし、私の後に装置を開発したSouquetがアメリカ在住のフランス人であったことも機械をヨーロッパへ持って行きやすく、そのため理解を難しくしたのでしょう。

 

 

  経食道超音波断層検査によるアメリカでの事故

 

  経食道超音波断層検査(経食道断層心エコー検査)は極めて安全な検査ですが、驚いたことに前述の如く19825月末のハンブルグのシンポジウムで初めての心停止事故が報告されました。 私は何百例の経食道検査を行いましたが、このような事故はおろか、他のマイナーな事故も全くなく、ほとんど同じような患者の負担である胃カメラ検査も、私は1000例以上行いましたが、何の事故も経験したことはありませんし、胃カメラ検査は名古屋で心停止事故が起きたなどということは聞いたこともありませんでした。  しかし前述のハンブルグのシンポジウムでアメリカカリフォルニア大学サンフランシスコ校のSchillerが検査中の心停止事故を報告したのです。 「心臓手術中に経食道の検査を行い、手術のために心停止したのではないか。」と聞いたところ、そうではなく検査のみだったそうです。  そのことはシラーが段上で報告したのですが、私が、会場の席からの質問で「どのような姿勢で検査したのか。」と聞いたところ、「スコープの挿入も検査も椅子に座らせてした。」のだそうです。  私が世界最初にした検査で最初からプローブの挿入は左側臥位で、検査は左側臥位または仰臥位で、必ずその姿勢で検査するよう報告したのですが、「なぜ私のようにせず椅子に座って挿入および検査をしたのか。」と聞いたところ、「アメリカでは胃カメラ検査の挿入および観察は多くの場合椅子に座らせ、座位で行う。」のだそうです。 胃カメラでも時に心停止事故が起きるとの話でした。 私は「アメリカは狂っている。」と思いました。 「私は左側臥位挿入、検査は左側臥位または仰臥位で行う日本では胃カメラで心停止事故など聞いたことがない。」というと同時に「私の経食道超音波断層のプローブはオイルバッグをつけて先端が柔軟なため、心停止事故を防げると同時に食道を傷つけることも全くなく、硬いプローブを食道に挿入すれば食道損傷の恐れがあり、バッグをつけるべき。」と教えました。 しかも「バッグを付けたほうが食道壁との接触がよくなり、よく見えるようになる。」ことも伝えました。

 

  それからアメリカでは経食道の断層の超音波検査は胃カメラと異なり、左側臥位で行われるようになり、事故は減少しましたし、このことはアメリカの胃カメラ検査にも影響を及ぼし、胃カメラ検査でも左側臥位挿入が増加し、私はアメリカの胃カメラ検査の安全性向上にも貢献したと自負しています。

 

 

  医師の頭の程度

 

  医学は文学でも音楽でもなく、本来科学です。 ところが、一部の医師の頭の悪さには本当に驚かされます。 一番の問題は頭が悪いのに、頭が悪いと思っていないことに問題があり、これは極めて危険です。 私は何度も書きますが、工学部電子工学科卒で、三菱電機のコンピュータ開発の仕事をし、その後国家公務員上級試験に合格し、運輸省のキャリアをしたのち、医学部を卒業し医師になりました。そのうち最も優れていたのが三菱電機、次が運輸省、著しく劣るのが医師です。 少なくともエンジニアは学生の時代はともかく就職して何か複雑なものを設計すれば自分で自分の能力がわかり、無能な人はほとんど自分が無能と自覚します。 しかし、医師は名古屋大学の医学部卒業程度でも自分が優れていると勘違いしている人がほとんどです。 しかもこの勘違いが卒業して社会に出てからも変わりません。 私は論理的学問をして、論理的な仕事をしてから医学部に行き、卒業して医師になりましたが、学生の時も学生の論理的思考の無さに驚きましたが、卒業後の医師の頭の悪さには本当に驚いてしまいました。 しかし、始末が悪いことに頭が悪いのに本人は優れていると勘違いしていることです。

 

  特に臨床医学はともかく、医師が行う医学の研究においては驚くことばかりです。 現在は臨床医学も多くの電子的な複雑な機械を使用しますが、それに対する徹底的な無知には全く驚かされます。 例えば、心電図、心電図モニター、除細動器、麻酔器、人工呼吸器、人工肺、超音波診断装置、CTMRIPET、コンピュータ等に対する無知識は実に絶望的です。 そのようなことでなくてももっと単純なことでさえ理解できないようで、私はしばしば医師に絶望感を抱きました。 医師には時々作家や政治家が出ます。 作家、政治家などという職業は全く頭はいりませんから、悲しいことです。 自然科学系では数理系の電気、電子、そして非数理系の生物、医学、化学さらにその中間の機械工学等がありますが、生物、化学系の人が、電子工学的な学問あるいは設計することは不可能ですが、その逆は簡単です。 

 

名古屋大学医学部第三内科のK 先生の下の若い医師の中で最も優れた人物と思われる医師が、研究中、紫色のブラウン管の像の写真をとるのに、明るすぎて露出オーバーになるためパンクロームに対して露出が二分の一になると書いてある赤色フィルターを購入し、撮影したら「真っ黒で全く映らない。」といって不思議がり、私に相談してきました。 私にはそんなことがわからない人がいるなんて信じられないことです。 「赤色フィルターは波長の長い赤色だけを通し、波長の短い紫色は全く通さない、したがって赤フィルターを付けて紫色のブラウン管の像を撮れば紫は全く赤フィルターを通らず、真っ黒になる。」といっても、「説明書には露出が二分の一になると書いてある。」と言ってききません。 パンクロームで撮影という条件が付くともうわからないようです。 次にブラウン管に毎秒30コマで写っている超音波心臓断層像を1秒間に18コマの8mmシネカメラで撮ると個々のコマで1コマが完全には写っていなくて、像が一部分かけるということに不思議がるのです。 私がシネカメラは18コマ/秒で撮影しても1コマにつきシャッターが18分の一秒開いているのではなく、シネカメラというのは1コマ撮ったら、一度シャッターを閉じ、フィルムを1コマ送り、再びシャッターを開いて撮影していて、そのためフィルムに写る画面が欠けると説明してもそれがわかりません。 

 

極めつけは私のいたM病院に卒業6年目で赴任してきたY先生でした。 Y先生は学生運動で東大入試が中止になった年に名大医学部に入学し、このときの学生は東大入試があれば、東大医学部に入っていたと思っていて、自分は頭が非常に良いと思っている人が多く、その先生もその一人でした。 Y先生に心臓超音波検査を教えてもなかなか覚えてくれず、検査でわからないとたとえ私が外来診療をしていても呼び出し、全く参っていました。 あるときいつもの如く私を呼び出して、大発見したというのです。 大きなビーカーに水を入れて私が文鎮に使っている厚さ2cmの真鍮をその中に沈め、「超音波のプローブでその真鍮板を見たらブラウン管上に1cmの厚さにしか映らないことを発見した。これは世紀の大発見で、久永先生もメーカーも間違っていた。」というのです。 私は「私もメーカーも間違っていない。 単純なことだから、理由を考えてみなさい。」と言ったら、「また、またー。僕が世紀の大発見をしたから悔しくてそんな嘘をいう。」というので、アマリニモ阿○らしくて笑えて来ました。 

 

読者のうち、頭が悪い人でもわかることだと思いますが、こんなことがわからないなんて長生きしてみるものだと思いましたし、そこまで阿○らしいことは三菱電機でも運輸省でも経験しませんでした。 水より真鍮の方が音速は速いので見かけ上そのように映るのが理由です。 読者のうちでこのことがわからなかったら、かなり絶望的かもしれません。

 

 

  世界的に有名な科学誌サイエンスの発行日を変えさせる

 

  山中伸弥教授は2006年にマウスにおいて分化した細胞に4つの遺伝子を注入することによりES細胞と同等の未分化細胞iPS細胞を作製することに成功し、この研究を雑誌「Cell」に発表しました。 この時から人間のES細胞と同様の細胞をES細胞のように卵子、精子を受精したものから作るのではなく、人間の皮膚細胞等からiPS細胞を作製する競争が始まりました。 あるアメリカの研究者がノーベル賞を目指して猛烈に研究し、山中が研究していることはわかっていたため、山中より早く発表しようと人間のiPS細胞の完成を急ぎました。

 

Cell」の編集長は山中に研究のスピードをあげるように促し、山中も研究を急ぎ完成させ、「Cell」に原稿を送って、人間のiPS細胞の論文が出版されることになりました。 「Cell」は月刊誌のため少し時間があり、それを知ったアメリカの研究者はすぐに世界で最も有名な科学誌の一つである「Science(週刊誌)」に投稿したが、山中のCellの発行より出版が4日遅れることになった。 そのため、アメリカの科学者は偉い人に働きかけて、「Science」の発行日を4日早めて、山中と同時としました。 これでノーベル賞をいただけると思ったのでしょう。 しかしこれはあまりにもエゲツナイ行動とみられて、世界中から非難されました。 そのため、そのアメリカの学者は世界中に自分がやり過ぎたことを謝るメールを送りました。 ご存知のようにその後山中がノーベル賞を受賞しました。 この事件はノーベル賞の中でも注目の研究でしたから、このようにニュースになりましたが、ノーベル賞の次のラスカー賞クラスの研究でもこれよりエゲツナイ研究妨害、発表妨害はあらゆる研究で常に起こっています。

 

 

  事故による頸部脊髄障害の治療と世界的雑誌Natureの干渉

 

  交通事故あるいは建設現場などでの事故で、頸部の脊髄を損傷して、脊髄障害を起こし、首から下が麻痺して手足の運動が不能になる人は毎年5000人以上に上ります。 以前はこのような人は一生寝たきりで全くよくなることはあり得ませんでした。 日本では動物実験による脊髄損傷の治療の研究が10年以上前から盛んに行われてきました。そして、骨髄から採取した間質性幹細胞を培養して増やし、静脈注射すると、脊髄障害が動物実験では治るということがわかり、2019年の春、札幌医科大学が15人の頸部脊髄障害の患者に培養して増やした間質性幹細胞を点滴静注することで、治療して15人中14人がよくなったと報告しました。 中には首から下が全く動かなかった患者が1~2日で手が動き数日で立って歩いた例があったそうです。 しかし、骨髄液をとって間質性幹細胞を分離して、1か月近くかけてそれを培養して、細胞数を増やして、それを患者に点滴すると現在では治療費が数千万円以上かかるため、厚生労働省は札幌医科大学に限定して試験的に保険治療を許可しました。 そのため、世界で最も有名な科学雑誌「Nature」は特別にその治療の調査のため、10人委員会を作り、その治療には科学的根拠が全くなく、また、間質性幹細胞は点滴静注しても肺の毛細血管を通過できず、そこで全部破壊されてしまうといい、そのため絶対に効果はないと「Nature」に載せ、日本の厚生労働省と札幌医科大学を非難しました。 また、たった15人の患者のみでは意味なく、ランダマイズ比較試験もしていないことも非難しました。 この治療は私から見れば、歴史的な治療ですから、「Nature」は嫉妬して狂ったのでしょう。 全くあきれるばかりです。 人間は嫉妬しますと集団でヒステリーを起こします。 全くもって天下の「Nature」ともあろうものが、情けなく、悲しいです。

 

 

  アメリカ心臓病学会(AHA)での英語での発表と質疑応答  

 

  アメリカでは医師、特に内科の医師の中では心臓内科医が威張っています。 他の医師より偉そうです。 アメリカ人は体が大きく心臓病が多いせいかもしれません。 世界で最も有名で権威がある学会の一つにアメリカ心臓病学会(AHA)があります。 AHAの学会の発表会に応募しても倍率が高く採択されるのが最も難しい学会です。 私はAHAの学会で1979年と1980年の二度発表しましたが、その頃は日本の発表者は極端に少なく、1979年は私一人でした。 東大を含めて多くの日本の有名大学の先生が聞きに行く学会です。 その規模は40年前で参加者25,000人くらいで、日本とはケタが違います。 私はそれまで何度もアメリカで発表してきた超音波医学会とはケタ違いの参加者です。 この学会にトップネームで発表できれば、アメリカ人でしたら、それが権威となり国からの研究費もとれる確率も高くなり、民間の助成金も舞い込みます。 このような大学会の発表は少しアメリカ超音波学会とは異なりました。 特に質問者は戦闘的で多数の視聴者の中で同じ研究をしている人からあなたは間違っているとはっきり指摘する質問もあります。 私も私の前の数人の発表を聞いていて、その鋭い質問を受け、発表者のたじたじの態度を見て、少し緊張しました。 中には鋭い質問に対して、発表者は「I accept your challenge (私はあなたの挑戦をうけましょう。)」などという場面もありました。 

 

  問題は質問です。 質問に答えるためにはもちろん質問の内容がわからないと答えようがありません。特に会場が極めて大きいため、私の英語能力では聞き取り難くて困ります。

それで私はよい作戦を考えました。 アメリカでは学会発表直前に発表者が壇上に上がったら座長は発表者の隣に立って発表者を紹介してくれます。 それで、その時「I am not good at English. So when there are any questions, sometimes I cannot understand meaning of questions. Please translate questions into very easy English.」と言ったら、「Oh yes」と言ってくれました。 すると発表後も座長は発表者の隣に立ってくれます。 経食道の発表は世界最初のため、ものすごい反応でしたが質問が極めて長いのです。このような学会ではこの学会に応募して落ちた人が聞いており、その人が質問に立ちます。 それは何か質問したいのではなく、自分の研究を聴衆に宣伝したくて自分の研究のことばかり言っています。 その時誰か偉い人が聞いていれば自分を引き抜いてくれるかもしれないからです。そんな自己宣伝は私の英語能力ではなかなか理解できず、どこから自分への質問に変わったのかですらわかりません。 このとき座長に質問が終わったら、すぐに座長が短いやさしい文に翻訳してくれたので、すぐ質問に明確に答えることができました。 さらに続けての質問にもスピードをもって答えることができました。 発表の終了後に東大の先生が私に話しかけてきて、「私の質問に答える英語能力に驚いた。自分が聞いた中で最も優れた英語能力だ。」と言ってくれました。 その先生は英語が得意だそうですが、質問の意味がほとんどわからなかったそうです。 私は座長にやさしい英語に翻訳してもらったとは言えず、照れくさい思いをしました。

 

 

  1980年のアメリカ心臓病学会の発表と日本人アジア人の医師の地位

 

  私は1980年にもアメリカ心臓病学会(AHA)で経食道断層の発表をしたのですが、それも非常に好評でした。 前年の発表で私の発表のスライド像、特に16mm映画像がものすごいことが宣伝されており、私の発表の時は会場は超満員でした。 すごい反応のうちに発表は終わり、16mm映画の反応はウォーという歓声が何度も上がりました。 発表後、ロビーにいると一人の東洋人が英語で話しかけてきました。 ソウル大学出身の韓国人の内科医で、「私の発表のため自分の地位が上がった。」と言って私に感謝の言葉を述べたのです。 「私は日本人であなたは韓国人ですから関係ないでしょう。」と言ったら、「アメリカの医師は韓国人も日本人も全く区別がつかないから、本当に自分の地位が上がり、去年あなたがAHAで発表してから自分を人間扱いしてくれるようになった。」とのことでした。 アメリカの大学では「主任教授がいて、教授がいて、 助教授、助手がいて、看護婦、掃除のおばさんがいて、日本人、韓国人の医師はそれ以下の扱いだ。」そうです。 「そんな扱いでなぜアメリカに来るのか。」と聞いたら、当時(40年前)、「ソウル大学医学部を出てもコネがないと病院に就職できないのだ。」そうです。 そのため、卒業生の半分の医師はコネがなく、病院に就職できないため、全員アメリカに来るとの話でした。 元の駐韓国日本大使が先年「日本人は日本人として生まれただけで人生の半分は成功だと書いていました。 日本も欠点は多数ありますが、どこかの国よりよいのかもしれません。

 

  私が研修医の時、親切にいろいろ教えてくれたY先生はアメリカのロサンゼルスのシーダースサイナイ病院に2年間留学されました。 留学者の大半が馬鹿にされ、苦しくて、日本食レストランなどで皿洗いをして過ごし、2年間勉強したふりをして日本に帰ってくるのだそうです。 Y先生は2年間アメリカの病院に勤めましたが、長い人生の内、その2年が一番苦しかったとのことでした。 「Hey Jap, Swith on that. Switch hurry.」といっていつも叱られていたそうです。

 

 

  心エコー研究者Y先生のアメリカ心臓病学会(AHA)での発表

 

  もうお亡くなりになりましたが、日本心エコー学会の創設者の一人で長く現在の神戸市立医療センター中央市民病院の部長をされ、その後大阪市大の教授になられたY先生は多数の心エコーの論文の著者として有名です。 このY先生は英語での一流紙の論文もあり、英語は得意な方だと思っていました。

 

  1980年のアメリカ心臓病学会(AHA)での発表の時の話です。 前述の様に、世界で最も採択されるのが難しい学会の一つですが、この時私とY先生の論文が通り、発表することになりました。 それはよろしいのですが、AHAの学会の会場内でY先生が顔をこわばらせて突然私に話しかけてきました。 「発表のスライドの受付の場所、スライド受付係が見つからない。」というのです。 「あなたは前年も発表しているからその場所を知っていたら教えて欲しい。」とのことでした。 私は「日本と異なって、発表するスライドの受付係などない。 自分の発表するホールに行って、スライドの映写技師の足元に自分の名前、発表時間、発表番号を書いた紙を付けて輪ゴムで束ねて置いてくれば良い。」とアドバイスしました。

 

  Y先生はアメリカ超音波医学会で1977年に発表したことがあるにもかかわらず、どうしてそんなことを聞くのだろうと思いました。 ところが、「これだけ大きな学会でスライドの受付係がないはずはない。第一発表が終了したら、スライドをどのように受け取るのか。」と聞くから、「発表のホールのスライド映写係の足元の自分のスライドを探し、これは自分のスライドだからと映写係の技師に声をかけ、勝手に持って帰ればよい。」と言ったらますます怒り、私のもとから去りました。 かなり時間がたってから再び私を見つけて話しかけてきました。 「スライド受付係がどうしても見つからない。」というのです。 私は「先ほど言ったようにそんなものはなく、発表のホールに行ってスライド映写技師の足元に置いてくればよい。」と言ったら、「スライドを誰かにとられたり間違えて別の人が持って帰ったらどうするのか。」というので、「それは予備のスライドを発表直前に技師に渡せばよい。」といったら、 そんなものはないというのです。 私は「誰もスライドなどもっていかないから安心してください。」と言うと同時に「私は予備のスライドを3組持っている。」と言ったら驚いていました。 「だから、自分の発表のホールに行ってスライドを置いてくればよい。」と再度言ったら、「自分の発表のホールがどこかわからない。」というのです。 仕方がないので私が彼の発表のホールまで案内しました。 私にはこんなことができなくて、なぜ研究ができるのかわかりません。

 

  これは後日談ですが、私は1992年だったと思いますが、経食道超音波断層を世界最初に開発し、臨床応用した業績で日本心臓病学会栄誉賞を受賞しました。 その授賞式は日本心臓病学会の発表会の会場である神戸であり、発表会の会場でその発表会の会長であったY先生と心臓病学会の理事長坂本先生とコーヒーを飲み話しましたが、Y先生は12年前のことを思い出したのか、非常に険しい顔でむっつりし、一言も言いませんでした。 私は受賞のお礼に二人にウィリアムモリスのケルムスコットプレスの本を贈ったのですが、坂本先生はさすがに「このような魅力的な本を。」とかお世辞を言ってくれましたが、Y先生はむっとした顔のまま全く反応ゼロでした。 その本は私が受賞した賞金よりはるかに高価なもので、簡単に手に入る本ではありませんでしたが猫に小判のネコというのはまさにこのY先生のような人をいうわけではないでしょうにと思いました。 その時、贈り物はつくづく価値のわかる人に送るべきだと思いましたが、二人のうち坂本先生だけでもわかってもらえたのは本当に良かったと思います。

 

 

  アメリカ心臓病学会への日本人の異常な数の応募

 

  私は1977年に経食道断層心エコー装置を開発し、日本発表の1か月前の197710月にアメリカ超音波学会で発表し、この時の発表論文は 19781月にUltrasound in Medicine Vol.4 という本として出版されました。さらに1979年に世界で最も有名なアメリカ心臓病学会(AHA)に応募して採択され、そこでも発表しました。 さらに1980 年にもこのAHAの学会に応募し再び採択され発表しました。 1980年のAHAのミーティングでは日本人は私と関西のK病院のY先生の二人のみが採択されました。 この学会に出席してみると、あるアメリカの高名な学者A教授に「話がある。」と呼び止められました。 そこで「今年(1980年)異常な数(1000名近く)の日本人から応募があり、審査に通ったのは二人だけだった。」そうです。しかし、「その日本人の応募した論文の内容が研究とは言えないほどに程度が低く、英語もまずく、意味のないものばかりで非常に迷惑している。」とのことでした。 そして、「いったいなぜ突然このようなことが起こったのか。」と私に聞いてきました。 私は「申し訳ない。」と謝ると同時に「全く理由はわからない。」と言う以外方法はありませんでした。 しかし理由を想像すれば、昨年、小病院に所属する私久永が彼らにとっては夢の学会に通ったのだからと、大学で研究のマネごとをしている日本人が我も我もと応募したのかもしれません。 私もこんなことは初めてですが、心から謝る以外方法がありませんでした。 それとともに日本人が角も愚かで無能で恥知らずとは思いませんでした。 いかにも日本人的で本当に悲しく情けないと恥じ入りました。 どうか多くの日本の若い研究者は外国での発表を考える前に、自分の研究内容の価値を客観的に考えて日本人の恥にならないように行動してくだされば幸いです。しかし、昔と違い、現在はAHAの学会に毎年何十人と採択され、発表されていることは日本も少しは進歩したようで、私としては極めて喜ばしい事だと思っています。

 

 

  嘘か誠か

 

  昔々埼玉医大にO教授、自治医科大学I教授という先生がおられました。 I教授は超音波医学専攻の内科学の先生でO教授は心臓外科専攻の先生だったそうです。 「心臓」という雑誌に「Meet the Historyという極めて大げさな題の記事があり、毎月有名な医師の対談が載っていました。 その中に「カラードップラーの開発」埼玉医大のO先生にきくという記事がありました。 これを読むとO氏は(超音波ドップラーで)心内血流を(X線の)造影と同じように観察できないかと思っていました。 なぜなら、とても超音波ドップラー検査でサンプルボリュームの一点一点をプロットして逆流の有無や程度を見ていられないと(カラードップラーという)二次元血流観測装置の開発をメーカー特にアロカに促し、その話をアロカの滑川氏にさんざんくりかえししたため、とうとう滑川氏はO先生に返事をしなくなったという話が書かれていました。 一方、自治医大のI先生は自分もアロカの工場に入りびたりであったそうですが、カラードップラー装置はどの医師の影響もなく、断じて滑川氏とその上司の小谷野氏が開発したものだと書いています。 このように埼玉医大のO先生と自治医大のI先生の発言は相矛盾するもので、特に自治医大のI先生の発言は埼玉医大のO先生の発言を意識して、あえて「滑川氏と小谷野氏のみが開発した。」と書いたように思われます。 という事はO先生かI先生のどちらかが嘘をついているという事でしょうか。 滑川氏がカラードップラー装置を発表したのは1982年の事でO先生は既に50歳を超えていたとも考えられますが、本当にそんなに強く滑川氏にカラードップラー装置の開発を働きかけたのでしょうか? たとえ働きかけたとしてもそれがなんだというのでしょうか。 働きかけただけでは特に研究的に意味のあるものでもないでしょう。 滑川氏の最初のカラードップラーの論文は1982年の2本ですが、その2本ともNamekawaKasaiTsukamoto Koyanoの名前のみで発表され、O氏の名前はありません。 発表したNamekawaの部下で自分が作ったのに無視されたというのならともかく、O氏の名前が無いという事は開発に全く関係ないという事になると書いたら書き過ぎになるでしょうね。 私の場合、すべての装置は私が作り、私が検査して発表したものですが、私も一度でよいからメーカーが作ったものを自分が開発したように書いて発表してみたいと思い、うらやましく思います。 ただ、そんなことをしたら嘘を書いたことになり、後で強く後悔するでしょう。  

 

 

  善人か悪人か

 

  私は多くの優れた研究者、特に世界的な医学の診断あるいは治療法を考えた医学研究者を妨害する地位ある先生方の話を書いてきました。 しかしほとんどの場合、この妨害者がその人の部下の研究者には評価が高く、他人に親切とまで言われていることがしばしばあることは驚きでした。 考えてみると、有名な地位のある医学研究者はほとんどの場合教授ですが、部下には優しく指導し、自分はままごと研究ごっこをしていて、自分の知らない本物の何か世界最初の優れた研究をしているが地位の無い人には妨害するというように自分に関係がある人か、無い人かによって態度を使いわけているのかもしれません。 ですから、その偉い人は全く意識していなくて地位の無い人に対しては妨害するのでしょう。 しかも言い換えればその偉い人は無意識に地位の無い人が何か優れた研究をしたときのみ妨害するのであって、他の人には人格者に見えるのでしょう。 これをどのように理解すればよいのでしょうか。 いったいこのような偉い先生は善人なのでしょうか悪人なのでしょうか。 

 

  名古屋大学の第三内科の神戸助教授、H先生、N先生等が世界で2-3番目に経胸壁の超音波高速断層を発表した時の東京および東部の先生方の妨害はすさまじく名古屋の先生方がこのような研究をしたことが面白くなく、超有名なアメリカの循環器の有名雑誌に次々多数の論文を載せたことで東京の先生はますます面白くなく、名古屋いじめをしたくなったのかもしれません。 ただ、このようにいじめ、妨害をするといっても、今の若い医師の先生方にはわからないでしょう。 それは今、例えば私が非常に詳しい、循環器、消化器、超音波においてはここ20~30年、いじめなければならないような研究をした日本人は誰もいませんから、いじめをする必要がないからです。 今の若い医師先生はたとえ研究能力のない普通の人でも、優れた人でも、まともな研究のチャンスがないのは本当に心から同情します。 なぜなら30~40年前のように、CTMRIPET、超音波断層、食道超音波、超音波ドプラ等に代表されるような画期的な画像研究は何もないからです。 従って善人悪人を理解する必要がないからです。

 

  名古屋大学第三内科のN先生がJapanese Heart Journalに投稿し、2年間もacceptともrejectとも言ってこなくて、無視する最悪の日本の偉い先生も自分の教室の部下、若い人たちあるいは知人の先生の論文には非常に好意的なのかもしれません。 しかし私に言わせれば、医学研究の発表妨害、出版妨害は完全な犯罪であり、有名な評価の高い医学研究者の多くが妨害しているのは誠に残念です。 最も私は現在の若い研究者は本当にうらやましいと思っています。 なぜなら再び書きますが、悲しいことに例えば診断映像研究においてX-PCTMRIPET、超音波すべて発展しつくした現在、この部門で研究しても何ももう進歩はないでしょうから、発表妨害、印刷妨害があっても結果的には何の害もないからです。 この皮肉がわかっていただければよいのですが。 現在、私が経験した40年以上前より研究雑誌数が10倍以上に増加、さらに電子雑誌も多数あり、研究成果の発表が非常に容易になっているのは幸いです。 ずっと昔から2020年代のように発表が簡単でしたら、回虫が癌の原因とか、ロボトミーでノーベル賞を授賞したり、オチョアがDNAの配列を間違えていてもノーベル賞をもらうということはなかったとも言えるでしょう。

 

  経食道のM-モード検査を行ったFrazinの論文がわずか1~2本しかないのも、もちろんFrazinおよびメーカーの技師が安全性の知識がなく、病院の倫理委員会とFDAの了解を得られなかったと考えられますが、一方FrazinFrazin以外の共著者がTalano, Stephanidesというようにアメリカでは主流の英、仏、独系の名前でないため差別され、FDA、倫理委員会の許可が得られなかった可能性もゼロではありません。 白人あるいはJ系の有名なアメリカの医学の教授も日本人に関して、その日本人が無名でなく、地位があり、また何か優れた業績がない人に対しては親切なのかもしれません。 なぜなら嫉妬する必要がなく人畜無害だからです。 いずれにしても人間は自分に有利になるように行動する動物であることの証明だと思います。

 

  有名な地位のあるアメリカの医学の教授は優れた業績を行った日本人の研究者を自分のところに招いても研究を盗まない限り自分の有利になることはありません。 また、地位の無い研究者を無視しても妨害しても自分に不利になりませんし、発表妨害をすれば相対的に自分の地位が上がりますから、妨害もただ率直に自分が有利になることをしているにすぎません。 本当に悲しいことです。

 

 

K先生の著書(医学)の出版妨害

 

名古屋大学医学部第三内科のK助教授は日本で最初に経胸壁超音波高速度心臓断層の研究を1974年に開始、その研究結果を論文として多数発表してこられました。 心臓高速断層の症例も多数集まったため、心臓高速断層の臨床応用の参考書を出版しようと思い、東京の医学書の出版社と交渉し、その本の出版の契約をしました。 しかし、その後その出版社から呼び出され、彼の本の出版を東京のT大学から妨害があり、今後の仕事の継続から考えて、K先生の本の出版ができなくなったと告げられました。 出版社は責任を感じたのか、京都の出版社を紹介してくれたそうです。 それを聞いたとき私は驚きましたが、K先生はそのくらいの妨害は覚悟していたと落ち着いていました。 その京都の出版社と交渉したら東京の出版社の紹介もあったため出版を快諾され、喜んでおられました。 これが1980年京都の金芳堂から出版された「心臓の超音波断層法入門」という本です。 その著書はK先生のみならず、若いA先生、B先生との共著でした。 それはよろしいのですが、その話は私に関係ない事と思っていたのですが、K先生は私にTelしてきて、私が世界最初に開発した経食道超音波断層装置の設計図と心臓の断層像の写真を欲しいと言ってきました。 勿論私は快諾し、装置の図面と経食道心臓断層像の写真を数枚渡しました。 勿論私はK先生が著書にどのような形で私の研究の経食道断層の写真を載せるのか全く分かりませんでした。 本ができてK先生がその本を私に贈って下さって、初めて本の内容を見たら、冒頭の非常に目立つところに何ページにもわたり経食道の研究の事が書いてあり、全く驚きました。 私の経食道の心臓断層写真が通常の経胸壁の写真より桁違いに解像度が高く、魅力的なため、目玉として私の経食道の写真を冒頭に持ってきたのでしょう。 それは私にとってはどこに載せてもらっても良いのですが、後で少し問題が起こりました。 と言うのはK先生は共著者A先生、B先生の許可を得ず、前もって見せもせず、独断で私の写真を冒頭の目立つ場所に載せたためです。 A先生、B先生は出版されて初めて私の経食道の写真が本に載っているのを知ったようです。 ゲラ刷りのチェックはどうしたのかわかりませんが、もしかしたら、ゲラ刷りのチェックはK先生単独でおこなったのかもしれません。 私としては私の論文が引用してあるために何も文句を言う筋合いはありませんが、非常に驚きました。

 

  この本は日本最初の超音波心臓断層の本でしたが、確かめてはいませんが内容全部が超音波心臓断層の本としても、もしかしたら世界最初の出版だった可能性もあります。 この本は結構売れ、少なくとも二刷までは行きました。 多数の英語の論文があり、著書もあり、世界で1~2番目に高速度超音波心臓断層を発表したK先生が、名大の助教授であったにもかかわらず、どこの教授にもならず、名古屋から遠い豊橋の成田記念病院に赴任したのは全く持って不思議です。 もしかしたら、業績を挙げすぎて嫉妬されたため豊橋に左遷されたのかもしれません。 さらにA先生とB先生も県外の地方病院(中津川市民病院と 掛川市民病院)に赴任したのは本当に驚きました。 名古屋大学とその周辺の大学はK助教授、A先生、B先生のような優れた研究者を教授にしたくないようです。

 

 

  大学医学部と病院図書館(室)の購読雑誌数

 

  世界にはどのくらいの数の医学雑誌があるか知りませんが、1980年ころ、名古屋大学医学部の図書館の購読雑誌数は英語約1300種類、日本語約600種類でした。 私は学生の頃、毎日医学部の図書館に入りびたりでしたが、これだけの雑誌があっても、毎日私の興味ある雑誌に目を通していると、2週間ともたず、次号が待ち遠しくなります。 名古屋市立大の医学部の図書館に行ったら、外国雑誌は800種類くらいとっていました。 以前にも書きましたが、アメリカカリフォルニア大学医学部のサンフランシスコ校の図書館は何度も行きましたが、専門雑誌が40年ほど前で3500種類くらいとっており、本当にうらやましく思いました。 当時日本ではアメリカの3分の1位しか専門誌を購読していなかったことになります。 名古屋大学の医学部の図書館の利用者はほとんどなく、利用している人は自分の本で自習している人がほとんどでした。 これは名市大医学部の図書館でも全く同様でした。 ただ、御存知のように日本の大学の医学部は各講座が図書室を持っており、独自に専門の雑誌を購読していますから、専門雑誌を読んでいないわけではないでしょう。 医学部の図書館に関しては、アメリカの医学部の図書館も私は利用した時はほとんど誰もいませんでした。 どの国も宝の山を利用しないのにはあきれます。 私はアメリカのカリフォルニア大学のサンフランシスコ校の医学部の図書館に何度も行きましたが、私は留学したことはありません。 アメリカには9回くらい行きましたが、行くたびに行きも帰りもサンフランシスコ経由で旅行し、そのたびにカリフォルニア大学サンフランシスコ校の医学部の図書館に行っただけで、私はアメリカの大学に留学したことは一度もありません。 今は知りませんがサンフランシスコ校の医学部の図書館は誰でお自由に入れました。 雑誌の数からいえば、名古屋大学、名古屋市立大学はずいぶん遅れた大学という事になり、残念でかつ悲しくなりました。 日本特に名古屋は全く駄目ですね。

 

 

  銅鉄研究とはどのような意味か

  

  学者の研究とはいかなるものでしょうか? 銅鉄研究と言う言葉があります。 私はてっきり無能な学者を軽蔑する意味にとってきました。 つまり、研究能力がないため、外国の優れた研究者がある価値あるものを銅で作って発表したら、日本の無能な研究者がそれをそっくりまねて銅のかわりに鉄で作り、実際は猿まねでも創造のように見せかけた研究の事だと思っていました。 インターネットは便利なものです。 銅鉄研究と言う言葉を検索すると、銅鉄研究とは軽蔑する言葉で無く、「銅を使用した研究を鉄にかえて行なった研究も意味があり立派な研究である。」と書いてあるアドレスが多数あります。 これを見て、私は驚きました。 全く長生きしてみるものです 銅鉄研究と言うのが軽蔑の言葉でなく、重要な研究の如く説明されているとは本当に悲しいです。 しかし、私が少しかじった超音波医学に関して言うなら、意味ある研究は1985年くらいでほとんど終わっており、この35年間画期的進歩はほとんどありません。 超音波医学に限らず技術においても、19601970年の間に開発された月ロケットを頂点に1990年以後画期的技術的な進歩はないと言ってもよいでしょう。 特に21世紀になって以後この20年間医学の画像診断、MEの進歩は全くと言うほどありませんでした。 そのため、学会は研究の発表会ではなく、勉強会になっており、多数の有名な外国の研究者を呼んで特別講演をさせて、それを学会と称しているのが現状です。 全く情けないですが、日本人の能力から考えれば仕方のないことかもしれません。 もともと日本では過去100年医学の意味ある研究はなかったのみならず過去2030年も進歩がほとんどないという事は、多分未来20~30年でも意味ある研究は日本でも世界でもほとんどないでしょう。 全くつまらない世の中になったものです。 日本人に限らず、世界の中で医学を進歩させる天才が出現することを心から期待していますが、そのような学者が出現することは限りなくゼロに近いでしょうね。 医学のうち画像工学は多分無限の進歩をするものではないでしょう。

 

 

  人間の行動は模倣がすべてか?

 

  人間は生まれた時、自分自身のみでは何もできないが、先輩(親)の助けと先輩の模倣で成長していきます。 学校教育は全てはまねをすることで模倣です。 勉強とは人類の先輩が開拓した行動、知識を学ぶことで創造の入り込む余地は非常に少ないです。 子供が模倣のみではなく、わずかでも創造をする可能性はあるでしょうか? 

 

有難いことに親が金銭的に豊かな事は子供にとって不幸で、模倣から脱却することが困難です。 なぜなら、親が豊かであれば子供の希望をすべて金で解決してくれるからです。 だからといってあまりに貧乏で、4~5歳から親の仕事や内職等を手伝わされたら、それも子供が模倣から脱却する妨げになります。 適度に時間があり、適度に貧乏であることが子供の成長に一番良いと思われます。 時間に余裕のある子供が何か高価な欲しいものがあったら、自分で工夫してその高価なものと同様のものを作って遊べば、それは大人の研究と全く同じと言えます。 従って金持ちで欲しいものがあったら親が買ってくれる家庭で育った人は大人になって研究する立場になった時、自分で工夫して本当の研究ができず、人のマネかせいぜい銅鉄研究になってしまうのでしょう。 このことは私の長い人生で経験したことにも全く合致します。 そのため金持ちの親に育てられ、充分参考書も買うことができ、高い月謝の塾に通って勉強して東大に合格しても卒業後優れた研究開発が全くできないのは当然でしょう。 

 

そのため私としては入学試験は頭の良さを必要とする物理とか数学を基本とすべきだと考えます。 文系理系などと言う考えを高校教育で持つことはもっとも危険だと思います。 子供の時自分の希望を満たすために頭を使う環境にない限り、大人になって創造的になることは不可能です。 大人になってもほとんどの研究者がまねごとの銅鉄研究しかできないのは親から譲り受けた遺伝的能力不足と、子供の時から創造的でなく単にまねごとだけの生活をしてきたからです。 

 

 

  学問の研究とは何でしょうか

 

  人間があることを理解することは本当に難しい事だと思います。 私は理論物理のゲージ理論が情けないことに全く分からず、自分の頭の悪さに少し悲しくなりました。 ノーベル賞を授与された益川は若い時、京都大学理学部の助手をしていましたが、小林も名大の大学院を終了直後、京大の助手になったそうです。 その時京大の素粒子論グループは20人位いたそうですが、誰もゲージ理論が理解できなかったそうです。 小林と益川がゲージ理論をよく理解していることが分かり、益川に毎月行われる湯川秀樹を囲んでの勉強会でゲージ理論を解説するように頼んだそうです。 益川はゲージ理論が湯川理論の価値を台無しに下げる理論のため湯川が怒りだすことを予測して、その講演を小林に依頼しました。 赴任早々の小林はそんな事とは知らず、湯川が出席した勉強会でゲージ理論を解説したら、案の定湯川が怒りだしたとの話です。 もっとも益川は湯川が怒りだす前に逃げ出していたという噂があります。 この話を聞いて京大の素粒子論グループが誰もわからないのでしたら、素粒子の研究に無関係の私がゲージ理論を分からなくても仕方がないと安心しました。 

 

  研究者と称する人は日本に何十万人といますが意味のある研究成果を上げている人はほとんどいないでしょう。 認識とは経験だとしたら、研究者のうち意味ある研究成果を上げた人など例外を除いてほとんどいなく、100%近い人が研究のマネごとをして、一度も意味ある研究成果をあげず、研究と言う言葉の意味を理解せずに一生を終えることになります。 なんと情けない事でしょう。 このようなばかばかしいことをなくすため 制度を変え本当に研究に適したひとのみが大学や企業の研究者になる方法はないものでしょうか。 極めて困難ですが世界で共同して何とか研究に適した人が研究できる制度を確立する必要があります。 研究者の象徴である博士号制度は全く意味がありません。 逆に意味のない事で博士号を取り、研究者のポストを得ている人がほとんどで博士号が研究の妨げになっているともいえます。 皮肉を言えばプロ研究者ほどありがたい仕事はありません。 99.9%の人が何の成果もあげないのですから、大学の教授、助教授は一生遊んで暮らすことができる免許証を得たようなものです。 全くうらやましい限りです。    

 

 

  一人の研究者がする本物の研究は一つだけか? 

    多数の研究をした学者もいるか?

 

  私は世界最初の研究を多数回行なったと自負していますが、幸いなことに本、論文、インターネットで私の研究は紹介されています。 紹介していただけるのはうれしいのですが、ほとんどすべての紹介は特に世界最初の事に関して、たった一つしか紹介してくれません。 それどころか例えば私の経食道超音波断層の開発に関して書かれていると「経食道の断層は世界最初に久永が開発しましたが横断面断層だけだった。」とか、「内視鏡がついていない。」とか書かれています。 断面に関しても「たった一つの横断面でかつ内視鏡がついていない。」とケチをつけて書かれました。 みなさん私の研究は一つだけだと思うらしく、「「久永が経食道エコー断層」を開発したが横断面セクターのみである」とか書いてきます。 他人の研究のことを書くのなら十分調べて書くべきだと思います。 人は何か世界最初の研究をした人のことを書くときは必ず「その人が行なった研究はたった一つ」だと思うようです。 まあ過去の研究の歴史を見ると優れた研究をした人はほとんど一つのみでガウスのように多数の研究をした人はほとんどいません。 名古屋大学第三内科のK助教授は私が彼の近くで研究していたため、私の多くの研究を少し理解してくれていましたが、私のことを「全部基本的な事は開発してしまい何も基本的な事は残らない。従って後輩のために全部やらずに残した方がよい。」とアドバイスしてくれました。 私としてはそんな全部研究してしまうというような気持ちはありませんでしたし、それどころか研究を十分できなかったと後悔している場合がほとんどです。 一般に多くの研究のパイオニアは論文の数はあまりにも少なすぎるようです。 私が日本人のため、また、大学や研究所に属していないため、世界で理解されることが困難でしたから、なるべく広く理解されるため、ついつい論文の数が多くなったのでしょう。 それでも私に地位がなかったため、もっと各種の異なる研究をして10倍以上発表しておけばより広く理解されたと思っています。 ただ振り返ってみると研究だけしていればよい大学の先生方と異なり、患者を診ながらの研究と発表生活はなかなか大変でした。 

 

私のした映像診断の研究はCT、MRI、PETを含めて30年前にほとんど終わってしまい、現在研究しようと思ってもほとんど何の研究のネタもありません。 考えてみれば、私が個人の貧乏人ができる研究の最後のネタが経食道経胃壁の超音波断層とドップラーだったのかもしれません。 私はいい時代に生まれて非常にラッキーだったと言えるのでしょう。 現在の若い研究者は映像研究で業績を挙げることは個人ではほとんど不可能と言ってよいでしょうから、心から同情するものです。 発展し尽くしたという事は全くつまらないともいえると思います。 従って現在の学会の発表会はに行っても全くドキドキする発表は無いので全くつまらないと言えます。 若い人に忠告しますと、学問は現在のようにつまらないものではなく、もっとドキドキするすばらしいものですので、つまらなさに負けず努力してください。

 

 

超音波診断装置における電子スキャナーと機械スキャナー

 

医学界において産婦人科、外科等における超音波診断装置の普及は著しい。 内科の循環器領域においても超音波機器は診断上、極めて重要な装置となって来ています。 超音波診断装置には超音波ビームを扇形に走査して生体の二次元断層像を得る装置が多い。 この二次元断層像を得るために超音波ビームを走査(主に扇形)するのに電子的に走査するものと、機械的に走査するものとがある。 装置開発初期には機械式走査の装置もあったが、現在日本ではほとんどすべての診断装置が電子式走査である。 二次元断面の断層像の質からいえば、はるかに機械式走査の方が解像度も高く優れているが(そうでない意見の人もいる)不思議なことに日本では販売されているのは電子式のみである。 ただこれは医学用のみの話で、動物病院用(獣医用)では日本でも機械式も使用されている。 電子式スキャナーにも良い点はあり、三次元超音波スキャナーとしては電子式のものも極めて優れています。 

 

なぜ機械式超音波スキャナーが日本では普及しなかったのか

 

超音波診断装置は外国においては例えばアメリカでは電子式も機械式も販売、使用されている。 日本では電子式のみであり、これはなぜでしょうか。  電子式超音波スキャナーは多くは大型で300万~2000万円くらいと極めて高価です。 一方機械式の装置は動物病院用のためか20万~100万円程度で極めて安価です。 私のクリニックには超音波診断装置が3台あり、そのうち1台が36年前の医療用の機械式スキャナーですが、それより25年以後に製造された電子式スキャナーより遥かに遥かによく映ります。 何故日本では機械式のスキャナーが普及せず医療用としては販売もされていないのでしょうか。 理由は極めて単純で、日本の医師が機械に詳しくなく、メーカーは高い方が儲かるからです。 さらに安い機械式装置は操作が簡単で頭の悪い医師でも使えますが、高価な電子式はスイッチやツマミ等多数あり、操作が複雑で医師が扱いにくく、医師以外の医療従事者に都合がよいからです。 日本には電子式のみで高価でも、それもよしとしましょう。 なぜなら動物病院用には機械式の安価なものもあるからです。 しかし、大型の機械でなく携帯用の安価な超小型の機械式スキャナーがほとんどないのはいけません。 例えメーカーが儲からなくてもそれを普及させ外来や回診で医師が一人一台持って使用すべきですが、日本の医師特に循環器の医師は操作方法もわからず知識もなく情けない話です。 本当に医師の頭の悪さとメーカーの儲け主義と医療従事者の縄張り争いには困ったものです。 このようなバカバカしい国は多分日本だけでしょう。 超音波検査は心電図やX線検査や血液検査のように単純なものではありません。 超音波検査以外の心電図、X線、CT、血液等の検査を熟知したうえでそれに合った超音波検査をしなければ全く意味がありません。 しかも現在心臓超音波検査はM-モード、断層、カラードプラー、カラーマイオカーディアルイメージ、三次元と極めて複雑でとても検査技師で何とかなるものではありません。(極めて優れた例外的な技師は別です。) 多くの循環器の医師は血を見るカテーテル検査に明け暮れて楽しんでいるようです。 カテーテル検査は極めて単純で馬○でもわかる検査だからかもしれません。 本当に悲しいことです。 どうしようもありません。

 

 

 

  優れた研究をすると嘘だと思う人たち

 

  私が世界最初に経食道断層心エコーを発表した時、私が有名大学の研究者でなく単に田舎の名古屋の小病院の内科の医師であったためか「そんなことは嘘だ。」と思った人も多かったようです。 発表して間もなくしたら、関西のO大学のM先生から電話があり、「三菱名古屋病院を訪問するから経食道断層心エコーの検査を見せてほしい。」という依頼がありました。 私は快く依頼に応え経食道の装置を見せ、その操作方法を教えると同時に、M先生自身がトランスデューサーを人間の食道に挿入し検査をしてもらいました。 検査中トランスデューサーを食道から抜いたり再び挿入したりを繰り返し、実時間の経食道断層心エコーのブラウン管の画面を見ながら「やはり嘘ではないのか。」とつぶやきました。 私はそれを聞いて驚きました。 なぜなら、私は機械の動作中の写真も、食道への挿入の写真も、検査の経食道断層心エコーの超音波像も、すべて写真と共にカラー16mm映画で撮り、それらの映写で何度も発表していたからです。 それにもかかわらず、そんな映画を見ていてなお少しでも「嘘かもしれない。」と思ったら異常だからです。 逆にアメリカの発表では座長が「Congratulation. You are first researcher to develop transesophageal 2-D echocardiography.」と言って祝ってくれたのに、私の日本での学会での発表時日本人の座長はむっつりとして何も言いませんでした。 全く驚きです。 みなさん世界最初の方法論など見たことも聞いたこともなく、対応の仕方がわからないのでしょう。 1981年頃千葉で行なわれた外科学会総会での特別講演では私が経食道断層心エコーの発表を終えた時座長は「まあまあかわいそうに、装置を買ってくればよいのに手作りの装置で見たとは。まあまあおかわいそうに。」と言いました。 私は外科医の無知を予想してM-モード心エコーを世界最初にしたエドラーの手作りの装置のスライドを映して「世界最初の装置は全て手作りです。 買って来て行うのなら世界最初の研究ではありません。 何を勘違いしているのですか?」と言ったら、座長はバツが悪そうに「そういう意味で言ったつもりはない。」と言いましたが、外科医のレベルの低さに本当に驚きました。 勿論レベルの高い外科医も多数います。

 

 

  優れた研究をすると嘘だと思う日本のメーカーの社長

 

  私も知りませんでしたが、アメリカの国内学会は時々国外でミーティングをするようです。 1979年か1980年か忘れましたが、カナダのモントリオールでアメリカ超音波学会がありました。 発表しての帰りにモントリオール空港でA社の社長U氏と専務のG氏に会いました。 そうしたら、私にどの経路で帰るのだと聞くので「サンフランシスコに行き、サンフランシスコに45日いてから日本に帰る。」と言ったら、「モントリオールの手続きは全て自分らがしてあげる。」と言い、私に「座って待っていろ。」と言うのです。 飛行機に乗ったら座席は3列のところをA社の社長U氏、専務G氏と私で連続してとってありました。 それはよいのですが、飛行機内で私の論文を出して聞いてくるのです。 口に出しては言わないが、さも「こんなにきれいに撮れるのはおかしい。」と言わんばかりで「表示角度が180度、270度と広いのは何故だ。」と聞いてくるのです。 これがエンジニア社長とは信じられないようなレベルの低いことを聞いてきます。 全く頭の状態と知識が私とは異なるようでした。 正直言って私はA社の社長と専務を哀れに思いました。 馬○な部下、職員は持ちたくないものです。 

  

 

  A社のように中堅の企業には頭の良い人は誰も入らないでしょうから、優れたものを作ることが困難なことはよくわかりますが、自分らが頭が悪いからと言って、他人まで頭が悪いと思うのは間違いです。A社の社長には勿論医師ではなく、食道まで飲み込める経食道断層心エコー装置を自作しそれで自ら心臓の検査をする人がいるなんて信じられないのでしょう。 アメリカ人でしたら、私の発表時、映写している動作中の装置と検査中の患者の様子と経食道断層心エコー像とを写真と8mmの映画で撮り、その結果をカンファレンスを開いて勉強しています。 その上次のミーティングに会場で私を捕まえて質問してきます。 ですから誰も嘘だなどとは思いません。 日本では発表の時も会場でも誰も質問してきませんし、 8mmもビデオも写真もとりません。 日本の会社はトランスデューサ―でさえダメな国産を使っていて、私が設計してアメリカの会社に作らせたものを論文で会社名を入れて発表したら、その会社に日本のすべての超音波装置を製造している会社がトランスデューサ―を多数発注したほど彼らの情報は遅れています。 なんと情けない事でしょうか。 半導体、造船等で隣の国に負けるのも無理ありません。 全くあきれてものも言えません。

 

 

  モントリオールの帰りに荷物が紛失する

 

  先に述べたようにモントリオールからの帰りにモントリオールの空港で超音波機器製造メーカーA社の社長U氏と専務のG氏に会いましたが、結果的にこの二人と同じ便で隣の座席で帰ることになりました。 U氏、G氏から「久永先生、久永先生。」とオダテられ、荷物の取り扱いをこの二人に任せました。 私はサンフランシスコで降りて荷物を受け取ろうとしたら、私の荷物はありませんでした。 全く荷物の手続きを他人に頼むものではありません。 荷物がなくなった時にする処置はなかなか難しく、空港内のいろんなところを訪ねてやっと荷物紛失係にたどり着きました。 私はいつもアメリカで飛行機に乗るときは荷物を預けた後自分自身で間違いないように伝票を確かめていましたが、この時は他人が荷物の手続きをしましたから確認しませんでした。 同じ便の8人の荷物がなくなっておりました。 私は荷物紛失係に荷物を紛失した8人のうち最初にたどり着きましたが、係が対応してくれたのは私が最後でした。 私の英語では後回しにされてしまったのです。 荷物紛失係に荷物が無いと訴えたところなんと「どこでなくなったか自分で推定しろ。」と言うのです。 驚きました。 やむを得ず私は「トロントで降ろされたのでしょう。」と答えました。 結果はその通りで2日後に何とか荷物を受け取ることができました。 後で聞いたところA社のU氏、G氏の荷物も紛失していたそうです。 皆さん外国旅行では決して荷物の扱いを他人に頼んではいけません。 また、係が付けた伝票も自分で確認した方が良いです。

 

 

  無菌動物の研究と宮川先生

  

  名古屋大学医学部出身で珍しく、優れた研究をなした先生に宮川正澄名古屋大学教授がいます。 宮川先生は世界で初めて、哺乳類の無菌動物モルモットを作った研究で知られています。 この研究で宮川先生は名古屋大学卒業には珍しく、文化功労者に選ばれました。 宮川先生の無菌動物を作る研究は、他人から見れば動物の研究ではないように見えたようです。 つまり医学の研究ではないというのです。 無菌動物を作るには無菌の空気、無菌の食料、無菌の部屋そして無菌での排出物の処理が必要です。 つまり医学に関係のない無菌の空気、無菌の食料等を作る研究しているのみだと人から言われ、それは医学の研究でなく、医師のすることではないと、ほとんどの同僚から批判されたそうです。 そして、その重要性を全く理解してくれなかったという話です。 私も私が超音波研究をしていると、超音波機械の開発は医師のすることではないと何度も言われました。 全く馬鹿馬鹿しいことです。

  超音波機械の原理および構成について医師だから知らなくて当然だと言います。 そのくせ、例えば医学の知識も乏しく、さらに英語に関しては絶望的な読解能力で私に言わせれば日本語の理解能力ですら、本当にあるのかと思わせられる医師が多数です。 私は今でも毎週の如く丸善、三省堂の医学書のところに行って医学書を読みますが、日曜日においては丸善も三省堂も医学書を見ているのは名古屋では私一人で全くの驚きです。 医師はいつ勉強するのだろうと思います。 全く悲しいことです。 しかしながら、自分は医師だから患者を診ればよく研究する必要はないと言わないのは驚きです。 逆に日本の医学研究者のほとんど臨床医学の能力なく、知識もなく、研究のままごとのみに興味があるようです。

 

 

 大学

 

  最初名古屋大学工学部電子工学科を受験したのですが、応用物理学科に回されてしまいました。一応通学しましたが翌年再び電子工学科を受験し、やっと合格することができました。電子工学科に入った時、榊米一郎教授が言ったことを今でもよく覚えています。榊先生は新入生を集めて次のように話しました。今までの高校までと異なり高校でいかに勉強がよくできても頭の良さには関係ない。この中の一割はとてつもなく頭がよい。残りの九割はいくら頑張ってもその一割にかなわない。そのため九割の人は頭の良い一割を妨害したり、邪魔をするようになる事が多い。自分が残りの九割と気づいたら、一割の頭の良い人の妨害をせず、遊んで楽しむことを覚えなさいと話しました。この話は全く正しい助言で卒業後社会に出たらほとんどの人が優れた人の邪魔をしてしまうことは本当に悲しい事です。榊先生の息子さんは二人とも東大に行き、関東地方の大学の教授になりましたが、愛知県に戻ってこられ、豊田工大と豊橋技術科学大学の学長になられました。榊先生は毎週土曜日の午後ほとんど、内外の優れた研究者あるいは技術者を一日非常勤講師として呼び、講演会を開くように企画し、実行なさいました。研究者の中には学会の特別講演のため来日した世界的に高名な学者も多数いました。大学の講義の中でこの講演会ほど素晴らしいものはほかにありませんでした。研究者、技術者の研究の話を直接聞くことほど意味のあることは他にありません。多くの研究者と技術者が旅費と宿泊費と名古屋大学の非常勤講師と名乗っても良いという資格のみで講演してくれたそうです。

 

 

 友人

 

 工学部には優れた人が多くいました。中でも機械工学科の石川昭治君は岡崎高校出身で極めて優れた大学生でした。岡崎高校で三年間連続トップの成績だったそうです。一般にそういう人は真の能力のない人が多いのが普通ですが、石川君は全くの天才肌で本当に頭の良い人でした。同じ岡崎出身のよしみですぐ友人になりました。彼からは本当にいろいろ影響を受けました。影響を受けたのは学問のみならず、クラシック音楽でも強い影響を受けました。私の生涯で一回だけの登山は上高地から前穂高へのものでしたが、その時のパートナーが石川くんでした。石川君は卒業後日本電装に就職しましたが、仕事は排気ガスの安全化の研究を豊田でトヨタ自動車の社員と共同でしていました。当時のガソリンには鉛が入っていて、排気ガスの毒性が今よりかなり強かったのですが、研究場所の換気が悪く、排気ガスを多量に吸ったためか重篤な血液疾患になってしまい26歳であっけなく死んでしまいました。一生の友と思っていましたから本当に悲しかったです。

 

 

  宇田川研究室

 

   私は大学4年になって、卒研の講座を選ぶ必要となり、名大電子工学科の唯一のコンピュータ関係の講座の宇田川研に入りました。 そこでコンピュータを学び研究しようと思っていたところ、コンピュータつまり電子計算機の実用的研究ではなく、論理数学(ブール代数)の理論ばかりの研究で本当にがっかりしました。また、宇田川先生はハチャメチャな教授で、つまり、ブール代数の数学の研究室ですから研究費は全く要らず、私たち4年生の歓迎会は国費(研究費)を使い、名古屋で唯一の歌舞伎座(御園座)での山本富士子主演の[無法松の一生(富島松五郎伝)の鑑賞でした。宇田川は山本富士子の熱狂的なファンだったからです。私は後にも先にも御園座に行ったのはこの時の一回のみです。私はその時ブール代数を研究しても仕方がないから、車のトルクコンバータに興味があり、効率よく安く軽いトルクコンバータの開発の研究に没頭していました。 それがばれたためか、夏休み中に宇田川に呼び出されて、「宇田川研から出て行け。」と宣言されてしまいました。卒研に行けなければ卒論は書けず、卒論の単位がとれません。卒論の単位は必須のため、自動的に卒業できなくなります。電子工学科の主任教授の池谷先生に再び宇田川研に入れるようにとりなしてくれるよう依頼しましたが、池谷教授は私が宇田川研から追い出されたことを確認しただけで、再び入ることはできませんでした。 

 

  私の前にも宇田川研から追い出された人は6人いましたが、その全員が卒業できませんでした。 私も4年の夏になって卒業不可能が決定してしまいました。 若いという事は素晴らしく、「まあ仕方がない、来年医学部でも受験して医師にでもなれば食べて行けるだろう。」と思うと同時に、少し勉強すれば医学部合格の自信はありました。 榊研に大堀君と言う親しい友人がいましたが、彼が私に良い話を持ってきてくれました。 彼は榊研に属していましたが、榊研の大学院5年生に長谷川さんと言う先輩がいて、アメリカに留学する直前でした。 その長谷川さんが「榊研に入る気があるのなら、榊教授に榊研に入れるように話してあげよう」と大堀君経由で伝えてきました。 長谷川さんは5年前に彼の一番の同級生だった友人が宇田川研で、私と同様に追い出されてしまったそうです。 そのためその友人は卒業不可能となり、電子工学科のある建物の屋上から飛び降り自殺をしたそうで、即死だったそうです。 そのことは新聞に載ったため私も記憶していましたが、長谷川さんに相談もせず、黙って死んでしまったため、彼は友人を助けてあげられなかったことを後悔していて、私の話を聞いて、大堀君に伝えてくれたようです。 私はすぐに榊先生に話していただくようにお願いし、榊先生にお会いしました。 その時私が、「宇田川先生は恐ろしいですから榊先生に迷惑がかかるようでしたら卒業はあきらめます。」と言いますと、榊先生は「大学は研究のみするところではない。間違いなく教育機関であり君を4年間教育するのに巨額の税金がかかっている。君を卒業させて、日本の工業発展のために社会に出し、そのために使った税金のもとを取らなければならない。君は卒研教育を受ける権利があり、そんなことは心配しなくともよい。」と言ってくれました。 「君が榊研に入ることで僕が迷惑するなどという事はまったくない。大学での信用度は僕は宇田川先生よりはるかに高く、私が困ることは何もない。」との話でした、それで私は榊研に入ることになりました。 宇田川は私の卒業2年後に若くして亡くなりました。 その時、宇田川研から追い出されて卒業できなかった5人が「宇田川の死亡を祝う会」を開き、私にも招待状が来ましたが、私は卒業できたため出席しませんでした。 いずれにしても現在このような人が教授をしていれば、直ちに倫理委員会から解雇の勧告があるでしょう。 それほどメチャクチャな時代でした。

 

 

  榊研での磁区構造の研究

 

  私は榊研に移ってそこのU助教授のグループに入りました。そこで研究していた名工大出身の大学院の5年生のF氏の研究を手伝うことになりました U助教授は磁石、特に磁区の研究をしていました。 磁区についてですが、磁性金属は磁気を帯びているときにおいて完全に磁化していないときはその金属の部分部分でそれぞれ磁化方向が異なっています。 そのうち同一方向に磁化している区域を磁区と呼んでいます。 この磁区を直接観察する方法が世界で少しずつ始まっていました。 当時はビッター法といって、磁石表面を鏡の如く磨いて、その上に鉄の微粒子(コロイド)を塗布すると異なる方向に磁化し、磁化の境界線(境界部分)にコロイドが集まる事を利用して間接的に磁区を観測していました。偏光した光が磁石によって偏光方向が回転するファラディー効果とカー効果を利用して、直接磁区を観測する研究もベルリン工科大学では始まっていましたが、観測の倍率が一倍と極めて低く精度の悪いものでした。 東大の先生がベルリン工科大学の装置をそのまま真似て、W光学という会社に1倍の装置を作らせ研究を始めていました。 名大のU助教授はその東大の装置を真似てY光学会社に1倍の装置を作らせました。 私にその装置を使って磁区の研究をさせようというわけです。 

 

   その装置を使っての研究の前に私は論文の勉強会でドイツのフライイングとフラウワーの一倍での磁区を観測した論文を解説することになりました。 私の初めてのドイツ語論文の勉強でした。 ドイツ語はたいしたことはありませんでしたが、たった一つアイゼンケルンIsen Kern(鉄の核)だけ意味が解らず、いくら辞書で調べてもわかりませんでした。  長時間考えてIsen Kern(鉄の核)はトランスの鉄心だとわかりました。 それはよいのですが、その論文の数式が間違っていました。 勉強会でその間違いを指摘するとU助教授は「ベルリン工科大学のフライイングとフラウワーは世界で最も優れた天才的な磁石の研究者で、間違いはない。」というのです。 私は3回にわたって非常に易しく説明を繰り返したのですが、U助教授は「世界一の学者だから間違いない。」と言うので、全く驚くとともに心の底から軽蔑しました。 出席者は私の同級生を含めて私に賛同する人は誰もいませんでしたので、私は皆全員頭の悪いことに驚き非常に腹が立ちました。 それと同時に私は「観測装置を少し改良すれば、一倍でなく100~1000倍で観測でき、それは完全に世界最初で最高の研究になる。」と言ったところU助教授は論理でなく感情で「そんなことはできるはずはない。」と一笑に付しました。 いくら私が詳しく説明しても、「そんなことができるわけがなく、もしできるのなら世界中のダレデモがやっているだろう。」というので全くあきれてしまいました。 

 

   その後も私は「簡単な改造させて下さい。」と提案してもU助教授は「絶対に改造してはいけない。」と言って改造を禁止しました。 話を戻しますと私は自分の研究室に戻って、F氏に「全員頭の悪い人ばかりだ。」と怒ると同時に嘆きました。 それでもF氏は黙っていました。 それから2時間くらいたった時 突然F氏が「わかった。」と大きな声で言いました。 私が「何がわかったのですか。」と聞いたところ、「フライイングとフラウワーが根本から間違っているのが分かった。」というのです。 それでも私は皆さんの頭の悪さに驚いていましたが、F氏は「こんなことがすぐわかるのは本当に驚いた。それではもしかしたら1倍の装置を改造すれば100~1000倍に見えるというのは本当か。」と言うので、「本当だ。改造させてくれないのなら装置は偏光顕微鏡と同じだから大学のどこかで偏光顕微鏡を借りられれば、それで100~1000倍に見える。」と提案したところ、「それはよい。」と賛成してくれました。調べたところ、名大工学部に少なくとも5台以上の偏光顕微鏡があることが分かり、F氏と二人で1時間でもよいから貸してくれるように四か所まで回って依頼しましたが、すべて断られました。やむを得ずF氏に明日最後の一カ所に行って、それでだめならF氏が名工大出身だから「名工大に借りに行こう。」と言ったら、F氏は「もうやめよう。頼みに行っても無駄だ。」と言いました。 私は「それでは研究を諦めるのですか。」と言ったところF氏は「一つだけ方法がある。U助教授は毎年正確に12月23日の夜に広島に帰る。そして1月7日の夜まで名古屋に戻って来ない。だから12月24日から1月7日までの間に改造して実験できないか。もし実験に失敗したら1月7日までにもとに戻せないか。」と聞いてきました。 私は「そんな事は簡単だ。」と言い、実験の準備を始めました。

 

   私は日本光学(ニコン)の名古屋支店に行き、「偏光顕微鏡の対物レンズを確実に買えるかどうかわからないが金の準備ができたら12月24日に買いに来るから仕入れておいて欲しい。」と言ったら快く応じてくれました。 榊研にはその時まだ800万円(現在の5000万円以上)の研究費が残っており、F氏が榊先生に偏光顕微鏡の対物レンズの代金を出してくれるように交渉してくれました。 12月24日になって日本光学名古屋支店に行き偏光顕微鏡の対物レンズを手に入れ、その日のうちにバラックを組み立てて見えるかどうかテストしたら、結果は間違いなく大成功でした。 驚いたことにF氏は榊先生に話し、研究費800万円全部使ってよいという許可を得てきました。 それから倍率の高い偏光対物レンズを多数買うことができました。 榊先生もこの研究に興味を持ち、我々の研究を見に来て、強拡大の磁区を直接見て、「私が強拡大で磁区を見た世界で3人目か。こんなに美しく見えるものか。だから研究は止められない。」と言い、喜んでくれました。

 

   私はそれから数か月後に卒業して三菱電機に就職してしまったため、この研究の成果は研究で何もせず、することを反対し広島にいたU助教授がトップネームで発表しました。 この研究でU助教授はアメリカIEEEの学会に二度も招待されて特別講演を行いました。 名古屋大学工学で電気電子学科の同窓会誌「二葉会報」に「アメリカ行きも二度目となると慣れたもので、、、、 」と投稿しているのを見て、私は悲しくなりました。 その後U助教授はこの研究で日本磁気学会から日本磁気学会賞を受賞しました。 何もやらなかったU助教授が発表し、磁気学会賞を受賞するとは皮肉なものです。 その上大学退職時U氏は磁気学会にU氏賞を創設しました。 F氏もその後名工大の教授になり、すべてを行なった私には何の利益にもなりませんでした。 しかし研究の多くはこんなもので、優れた研究はしばしば発表者が行なったものでなく部下が行なったというようなことは、ノーベル賞あるいは文化勲章級の研究でもしばしばあることです。 電子工学科の学生時このような経験があったため、私は再び研究する機会があったら、次回は絶対に他人に取られず、世界のプライオリティは自分が取ろうと思いました。 しかし、私の生涯で一番自慢できる磁区構造の研究が全く私の研究になっていないのは本当に悲しいことですし、U氏が論文に全く私の名前を入れなかったとは泥棒同然と言ったら言いすぎでしょうか。 文化勲章を受賞し、文化功労者になられた有名な本多光太郎、茅誠司、霜田光一の三氏は三氏共磁区を見ようと研究しましたが、三氏ともに磁区の観測に失敗しました。

 

 

  名古屋大学電子工学科榊米一郎先生

 

 私は大学だけで3回受験し名古屋大学工学部応用物理学科、電子工学科、名古屋大学医学部医学科に入学し、多くの先生に会いましたが、いわゆる尊敬できる先生にはめったにお目にかかれませんでした。 しかし名大工学部電子工学科の榊先生は奇跡的に尊敬すべき先生だったと思います。 私が2回目に大学に入ったのは電子工学科でした。 これは3年の時に宇田川教授が言ったことですが、電子工学科の合格者は入学試験でずば抜けて成績が良く、全学部の合格者のうち電子工学科学生全員が100番以内に入っているという話でした。 入学時、榊先生が次のようなアドバイスをしてくれました。 榊先生は「名大で最も難しい電子工学科に入学おめでとう。みなさん高校時代極めて成績が良く、エリートだったでしょう。しかし、高校でいかに成績がよく秀才と言われていても、この科に入学した人のうち1割は桁違いに有能です。残りの9割は凡人で、いくら勉強しても対抗意識を持っても太刀打ちできないのが高校とは違います。従って自分が上の1割でないという事が分かったら、優れた1割の人に追いつくことや邪魔をすることを考えずに遊ぶことを覚えてください。」とおっしゃいました。 まことに真実を衝いた優れた意見だと今でも思います。

 

 大学ではいろいろな授業がありましたが唯一非常に意味があり、強く記憶に残っているのは、月に一回程度土曜日に日本人の優れた研究者及び会社の技術者を呼び、午前8時半から午後1時にわたって特別講演を企画してもらえたことです。 また、外国の有名な研究者で日本の学会で特別講演を頼まれて来日した学者にも名大に来てもらい講演をしてもらったことです。 偉大な学者の優れた業績を学ぶのもよろしいですが、研究や技術開発をした本人達から考え方、苦労したこと等を直接聞くのは本当に役に立ちました。 「現在の大学がどのような授業をしているか知りませんが、今もこのような授業が行なわれていればよいのだが。」と心から思っています。

 

 

榊研究室

 

  私は榊研で随分優遇されていました。実は私が榊研に入って間もなく榊研のメンバーの六人の学部4年生を教授室に呼び出し、「ある物理の定数が発見されたがその定数がどのぐらいか推定しろ。という質問をされました。 私は遅れて入った新入りでしたから榊先生から見て一番右隅に座り、左側の人から質問され答えていきました。 誰も答えられませんでした。 私は「6.3前後だろう。」と答えました。 するとその根拠を質問されました。 私がその複雑な根拠を時間をかけて説明すると、「この雑誌は私のポケットマネーでとっていて、日本では私しかとっていない。君が見ていないことは確かだ。それをこの短い時間で考えて答えられるとはすごい。本当にうらやましい。それでは宇田川研から追い出されるのも無理はない。」と言ってもらえました。その事で信用され、私に自由に研究させてくれたのではないかと思います。

 

   日本では多くの研究は外国のまねです。 それは、本当に悲しいことです。 独創性のない研究をするくらいなら、研究などしなければよいのにと思います。 ロシアのバレエの先生が日本に来て、「日本ではバレエを好きな人がやって公演している。 ロシアでは才能のある人がバレエをしている。」と言ったそうですが、まさしく日本では才能があって研究しているのではなく、好きな人と好きでもない人が研究しています。 それで私は工学部の卒業アルバムの私の写真の下に私の信条を書きました。 そこには「人のマネをしないこと」とあります。 これは日本人の研究に対する皮肉です。